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2006年2月

2006年2月24日 (金)

○ 現実と非現実

 現実にある美しさとは、自分の手の届く場所にあり掌に納まる

モノなのだろうか?

非現実に存在するそれは常にそこにあり、自分の傍に常時存在

しソレを望んだ瞬間に見つめる事が出来たとしても、現実にある

ソレは、限りなく遠い場所になり常時傍にある訳でもなく、ソレが

ソコにあるのかも定かではない・・・。

 見える現実をいつの間にか非現実と摩り替えて、その美を現実

の物とし自らを誤魔化し今見える現実から目を背けてるしかない

のだろうか・・・。

その場所に無いソレを求めるには、そこにソレがあるという現実が

無くては成立しない・・・。

 非現実の色が現実の色へと変わり、現実の色さえも何時しか色

褪せたモノへと変わっていく・・・。

この場所にある色を美しく思えなくなった時、現実の価値とは何処

にあるのだろう・・・。

 人は現実世界に生きる事が出来たとしても、日現実という妄想の

中で生きる事は出来ない。自らの足で立ちその場所で生きる事が

出来たとしても、誰かの中で生き続ける事なんて出来ないのだから。

誰かの中にいい形で刻まれる存在であれば、自らの居場所がその

器が消えた後でも残るだろう・・・。

ソレが無ければ、今ある器の価値すら解らなくなってくる・・・。

 その場所にある現実が見せてくれるその色は、今の自分が感じる

事の出来る選ばれた色・・・。

そこにある色の全てを人は垣間見る事も無くただ、自らの今がその

色のみをその2つの目に映し出す・・・。

 現実にあるその色は、その目に映る非現実の色とどれほどの違い

があるのだろう?

今見える本当と思える色は、誰の目で見た本当の色なのだろうか・・・。

 人はその瞳に映るその色を真実の色と認識し疑う事も無くその鼓動

と共に命の記録を刻む・・・。

その鼓動の数と共にその瞬間の色が存在し、その色の数はその生き

方によって増減する。

 今感じるその色は、一体どんな色だろう・・・。

かなり怪文書的な導入となってしまいましたが、これからの内容と

は全く関係ありません・・・。

また、写真ネタなのですが・・・。

ソコに無いものを自らが作りその場所にあるソレを映したように自ら

が作り上げたモノ・・・。って感じです・・・。

 実際に被写体はその場所にあった撮りたいと思ったものなのです

が、この情景はその場所には存在していません。絞りを効かした写

真だからそうとかではなくて、その場所の情景から作り上げた写真

だったりします。

この構図でこの場所にあるコレを撮ったのではなくて、この場所に

あるモノをこうなるように作り変えたものなんです・・・。

 その場所にはこの植物とは別のものが多くありこう言う状況には

なってませんし、こう言う感じですっきりとした場所でもありません。

【この植物の周辺は結構植物が生い茂り凄い状態でしたし・・・。】

その中でソレを選び、その葉と合わせこうなるように作ったモノなん

ですよね・・・。

この場所は実際には無く、被写体となるコレはあるのだけど撮影

段階でコレはあくまでもモチーフとしてのモノであっても何かしらの

感情が込みあがる事も無く撮りたいと思ったモノなんですよね・・・。

だから、加工してこう言う形で仕上げてます・・・。

 前者の色々と思い入れのあるものはそういう事をしたくないけど

綺麗に撮る方法を悩むほどそれに悩み結局フィニッシュ段階でも

納得行く物になってません・・・・。

 まぁ、どちらも撮り方がなってないですからいい物ではないので

すが、この差って何でしょうね・・・。

現実の美しさを感じるその被写体は加工しなくても美しく、それを

そのまま伝えたい気持ちになり、一方は、ソレを伝えたい為にソレ

を取り、ソレを生かす為に非現実としてしか存在しないそれにする。

 なんかやってて不思議だなと感じました・・・。

撮りたいと言う被写体って多分撮っても一生納得行かないのかも

しれないなって・・・。そんな風に感じました・・・。

 後者の場合、ソレを撮る上でどういう風にしたら綺麗になるだろ

うとか考える部分までは同じでも、なぜか違うんですよね・・・。

素材の加工に近い感覚になる・・・・。

ある種、好きでもない物を扱ってるのかな?とも思うし、逆にそれ

だけ多く手を加えると言う事は、好きでないと出来ない事なのかも

しれないし・・・・。

 逆に、手を加えたくない物と言うのは、それ程大事にしたいモノ

のように感じるけど手を加えない分それ程愛着はないようにも見

えてしまう・・・。

 なんでしょうね・・・。

加工して出来た非現実には多くの自分の時間が懸かってて、大切

にしたい何かにはそれ程時間をかけていない・・・。

なんかそう考えると感情と行動って矛盾してるのかなと思ったりしま

すね・・・。

 それを変える事で、それでなくなる現実が許せるその写真と、そ

の場所であるからこそそれが出来ないソレ・・・。

写真って、この感情とかいう部分をある程度切らないといけないの

かなと、そんな風に思いました・・・。

 絵とかもそうなんですよね・・・。個人とかは絶対モチーフに選ばな

いし、一番好きな何かがあったとすれば、ソレを避ける・・・。自分で

ソレを作り上げたとしてもソレが自分の感じるそれで無い現実が時

間の経過と共に顕著に見えてくるから・・・・。

 何だろうね・・・。ソレを作り上げる自分が居ないことが解っている

から逃げているだけなんでしょうか・・・。良く解らないけど・・・。

 絵画は現実にあるそれを、画家の感性と言うフィルターを通して

描きあげたモノだからそれ以上であってもそれ以下ではなく、現実

にあるソレを見た画家がそれ以上であるソレとして、それから反れ

る事無く描きあげたのではないのかなと思うんですよね。

 そう考えると、多分その絵画を描く時に絶対的な自信が無ければ

その空間に存在する自らが心動かされる程のそれを自らの絵筆で

ソレとして描き切る事は出来ないのではないかなと・・・。

それ以上にする自信があるからこそそれを見てその場所に佇みキ

ャンバスに黒鉛を走らせ、その場所に通いその色を焼付け時間を

費やしそれとするのだろうと・・・。

 一つの壁なのかもしれないですよね・・・。これって・・・。

その美と言うものを前にした時、おごりでなくそれをソレとして感じ

それ以上に出来る存在であるからこそ、ソレを自らの手でそれ以

上へと昇華させる事が出来る・・・。

 だからこそ、人はソレを見た時にその昇華されたそれに息を呑

み、感動を覚えるのだろうと・・・。

 凡人と才能ある人間との差とは、その部分なのかなと・・・。

そんな風に感じました。

ただ、このコレを見せる為に加工しようと思えるソレとそうでないそ

れの差が生まれてしまうのはなぜなんでしょうね・・・。

 才能ある人間は、感性より感情の方が勝利する程のその光景に

出会った時、その時にでもやはり自らの感性とその自らが信じるそ

の生まれ持って与えられたソレによってその絵筆を走らせるのだろ

うかと・・・。そんな事を考えてしまいました・・・。

 現実的にどうなんだろう?人はソレを感じる時、自らがそれ以上に

出来ると信じそれを自らの手で変えてしまう事が出来るのだろうか?

なんとなくそんなことを考えてしまいます・・・。

まぁ、凄く長くて結構意味不明なことを書いてしまいましたが、現実的

にはその場所とは違う情景の写真です・・・。

110102765432126 【撮      影:SO505 is】
【各 種 加 工:Photshop Elements】

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2006年2月23日 (木)

○ キエユクモノ

もう手に入らないものだと解っているなら忘れてしまったほうがいい

のかもしれない。

晴れたその日も、心を晴らす事はない。

時間は、ただ、冷たくあざ笑うだけで、何も与えてくれはしない。

色さえもない遠い未来に希望なんて無い。

過ぎ去っていく多くのものは、やがて色を無くし、記憶からも消えて

いく。

残らない過去。何もない現代。何もかも存在しない未来。

今見えているその色は、虹のように消えてゆく。

体積も質量もないはずの時間がなぜか重くのしかかる。

想い出としてと留まる事無く過ぎ去っていった時間・・・。

くり返されるだけの時間の流れを一人で感じる苦痛…。

進むしか無いと、前だけを見て生きて一体何が得れただろう?

あるのは、孤独な人生と何もない未来だけ。

幸せな時間が、そこにあればそれでよかった。

もう、手に入らないもののひとつ。

普通の幸せ。手に入る気がしないもの。

誰れも居ないこの場所。信じるものもないこの場所。

何処かを捜しても、求めるものの無い現実。

捜しても、存在しない幸せな時間。

生きる時間が増える程、その重さに潰されていく。

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2006年2月11日 (土)

○ モノの感じ方

 子供の時に見て意味が通じなかった映画と言うのは、ハズレの

映画として扱ってしまいがちですが、ある程度知識を持った上で

ソレを見るとその映画に対する評価と言うのは変わってくるはず

です。

当然、子供の時の感性と大人の感性では全く違うので、同じ映画

を見ても全く違う印象を受けたりするのですから不思議です。

 多分小学生くらいの時に【 マルコムX 】を見ても多分飽きて暴

れ出すでしょうし子供の視線で見ている映画と大人の視線で見て

いる映画では多分全く内容が違って感じられているのだと感じます。

 同じマスタリングされた映像であっても、その個々の感性と知識レ

ベルによってモノの感じ方や見方が変化するのも不思議なものです。

 ふと思ったのですが、子供の頃にパニック映画のノリで見て全く面

白さを感じなかった映画に【 ORCA 】と言う映画があります。

パニック映画と言う先入観があってソレを裏切られたと言う心理が

あり、その後の時間軸にソレが影響していてその意図したモノとの

相違点があると言うジレンマを解消できずに映像が進み映画が完

結する・・・。

いま考えるとそんな感じだったかなと。

 多分このような流れがあって映画を見たならどんな映画も面白く

ない物になってしまうのかなと感じます。

【 先入観とは真実をゆがめる存在である  】

そう思う事が結構あります。

 もし、今ソレを見たらどう感じるんだろう?

そんな事を思うことがあります。

過去に見てキツかった映画と言うのが何本かあるのですが今見て

もやはりキツいのかちょっとみてみようかなと感じていたりします。

 一度見たものをもう一度見た時に一度目で感じる事の出来なかっ

た何かを感じる事が出来るのがある種映画の楽しさなのかもしれな

いですし・・・。

 ストーリーや時間軸や音響だけでない、その情報を元に多くを構

築していくのはあくまでもソレを見た人ですからね・・・。

多分その映像情報によって構築されるその幾多のパズルを組上げ

る楽しさを求めてその映像を求めるのかもしれないですね・・・。

 絵画も同じで、その日によって感じる印象が違うんですよね。映像

や音って結構同じマスタリングであったとしても決して同じように感じ

る事はないんですよね。

その要素が詰まったものが映画だったりアニメーションだったりする

訳で、その映像部分を脳内で自由に描く事を委ねた物が小説なのか

もしれないです。

多分、同じ小説でも登場人物の詳細は意外と6年位前のイメージと違

っている事もあるのですから。(^^;

 楽しかった物が楽しくなくなっていたり、その逆があったりと、その時

の感性で以前見たものに触れてみるってのも意外と新しい発見があっ

たりするものです。

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