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2006年1月

2006年1月16日 (月)

○ 光の魔法

陰影は、その対象物の形状に幾つもの表情を与える。

そこにある、ひとつの固有単体は同一のライティングとアングルで

見つめた時に、感じるその印象は、その固有単体のもつ全ての表

情ではなくその一面にしか過ぎない。

1つの立体を把握するのにひとは少くて3つ多くて6つのアングルか

らの情報を必要とする。

そして、それを脳内にて処理し、立体の形状を把握する。

ただ、その立体の形状の把握は出来ても、そのモノも持つ表情を幾

つ引き出せるかは別物である。

光は時に、その形状をより美しく輝かせ、時に光は、その形状の良さ

さえも消し去る。

光量が少い程映える形状も在れば、多い程映える形状も在る。

全てが同じ光の下で同じように耀けるとはかぎらない。

その形状、そしてその固有単体の持つ特性によって映える環境は

違うのだから。

そっれが一番綺麗だとおもえるその場所で、一番映えるその神の

みが知る一点で捕えたその一瞬のその絵こそがその固有単体の

持つ本来の美しさなのかも知れない。

光によって産み出されるその存在の持つ一面。

誰れもが目にするに日常的なものも、光の辺り方で今まで知らな

かったそのモノの一面を知ることが出来るのだから。

知っているつもりで居ても、その一部しかヒトは見ていないのかも

知れない。

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2006年1月14日 (土)

○ 下降線

 多くの時間も下がり続けるモチベーションを止める術を探す時間と考えれば、

少しは気が紛れるかな・・・。

 何が変わる訳でもない、失望したその多くに見切りをつけ、何か新しい物を

探すのも時間があれば可能なのかな・・・。

作らない自分で入れる時間は何時来るんだろう?どんな自分であったとしても

そこに留まる人はどこにも居ないけど・・・。

 求めるものはどこかに消え、求める気持ちもどこかに消える・・・。

募るばかりの失望感・・・。何も変わらない・・・。終わってくれもしない。

 時間は何も与えてはくれない。孤独な時間は何を与えてくれるだろう?

ただ独り・・・。この場所で失ったものへの懺悔をし亡くした多くのものへの

後悔の念にさいなまれる・・・。

 未来はどこにあるのか?進んだ先に見える希望というものが音もなく崩れて

いき、ただ暗闇が辺りを包む・・・。

 光の差さないこの場所で、何時まで自分を誤魔化せばいい?

何もないこの場所の砂時計は何時止まる・・・。

 希望と言う物がなくなれば、未来も共に消えて行く・・・。過去にあったそ

の形、風化して形すら解らなくなってしまった、夢の形・・・。未来の形・・・。

そして、希望と言う物の形・・・。すべて砂時計の砂となって、時間と共に流れ

て行く・・・。

 誰にも届かない僕の声・・・。

 もう届かない僕への声・・・。

 もう存在しない僕への声・・・。

 届ける事すら出来ない僕の声・・・。

誰も居ないこの場所では、通り過ぎる幻影だけ。振り返る過去もなく、満たさ

れた記憶もない・・・。

 薄れて行く、多くの記憶・・・。薄れて行く自分の存在・・・。

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2006年1月13日 (金)

○ 等価交換

 何かを失った人間が得れるもの・・・。

それは何かを失ったと言う現実と、何かを得なくてはならないと言う現実。

 もし等価交換の原理と言うものがあるなら、人は何かの代償の下で何か

を得れるはずである。

 人は何かを失った時に、両手一杯に抱えていた荷物の幾つかを処分する。

それは失う事に違いない。

しかし、両手一杯に物を持ち何かを得れるほど、人は多くを自らの手に持ち

合わす事は出来ない。

人は何かを失った時、一つの責務と一つの権利を得る。

その責務とは、その失う前の自分以上の自分である責務であり、権利とは

その失った物と対等の物を自らの手で掴み取る権利である。

 人は、何かを失えば弱くなる。しかし、何かを失った現実はどんな代償を

持ってしても帰ってこない。

失いしモノは、その十字架を背負いそれを代価としそれ以上の自分として

過去に得れなかった自らの得るべき物を得るために努力する必要がある。

 代価を支払った段階で、ソレを払わぬモノと同等な状態ではないのだから・・・。

それがいい意味であっても、悪い意味であっても、同等ではない現実は変

わらない。

 何かを失ったのなら、その失ったもの以上の何かを探し得なくてはならない。

その支払った代価が無駄でないと自分に理解させる為に・・・。

そして、その等価の何かを得るために・・・。

その代価を無にしない為に、過去の自分以上で居なくてはならない。

その代価は、誰の為に払われた物でなく、その代価は払うべくして清算され

たものでしかない。

 人は何かを得た時に何かを失い、何かを失った時に得る権利を有する。

人はその生涯の中で、それを反芻していくのかもしれない。

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2006年1月 8日 (日)

○ 寿命

生物には打てる鼓動の数と言うのがあって、それを寿命と呼んでいる・・・。

とりあえず、当てはまらない生命体がいるとすればヒト位だろうけど・・・。

 最近思うのですが、愛情の数と寿命って関係してるんじゃないかなと。

愛情がない環境とそうでない環境では寿命って変わるみたいだね・・・。

 動物と一緒に居た事がある人だと解ると思いますが、愛情を注ぐとその分

生きてくれるんですよね。と言うか・・・。愛情と成長って比例するみたいな部

分って結構リアルに感じてたりします。

 植物も音楽が好きだったり、音の好みがあったり声をかけてあげると反応する

んですよね。生きてるものってやっぱり共通したそう言う物があるのかなと思い

ます。

 機械や機材なんかもそうだと思うんですよね。邪険に使えばすぐ壊れるし愛着

のあるモノに関して言えばそんなに壊れまくると言うことはないでしょうし。

そう考えると、その寿命を左右しているのって結局人なんだなと・・・。

 で、なぜこんな事を書くかと言いますと・・・。映像関連の製品が続々と天命

を全うされ次の世代にその役目の引継ぎを行わんとする事象に遭遇しているから

だったりします。

 そう・・・。今、映像は殆どPCで見ている状態でして・・・。TVなるもの

がその天命を全うしその亡骸がこの場所に佇んでいるわけです・・・。

 寿命であると考えた時に、どの程度大事に出来ただろう?どれだけ大事な物だ

と感じながらその存在を見てきただろう・・・。そう感じてしいます。

もし、もっと大事に出来ていればもっと違った結果があったかもしれない。もっ

とその寿命と言うモノを延ばす術があったのかもしれない・・・。

 モノって、量産されていても工場から出荷され自分が使い始めた瞬間から自分

との繋がりと言う者を持つんですよね。ある種この瞬間から命が始まり決められ

た鼓動の数を打ち始めるんですよね・・・。そう考えると、その鼓動の数の増減

は、自分によって変わってしまうモノなんですよね・・・。

 機械であっても命であっても自分がどうあるかで変わるんですよね・・・。

なんだか、凄く消え行くその一つの形作られたものを見ていると感慨深いモノが

あります・・・。

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