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2004年11月30日 (火)

○ 読書の秋

 読書とは言わないかもしれないのですが・・・。

【道を開く】

と言う本を買いました。

松下幸之助氏が、PHP誌の裏表紙に連載されていた短文集です。

実に解りやすく、尚且つ誰でも頷ける当たり前の事なんだろうなと言う事が

多く連載されています。

しかし、その文節の一つ一つに、頷きながらもソレを行えていない自分と言

うモノがここに居る現実や、例えば、その事象において果たしてそう思える

だろうか?など、その短い文節たちは多くを考えさせてくれます。

 読んでいて・・・。

【コレと同じ事書いたことあるな】

と言う文節があったのは不思議でした・・・。

多分、偉人の言葉とは何処かに記述引用される事外多いのできっとその文

節が脳の内部に残っていて、それが何かの事象が起きた時に引き出されて

のだろうなと・・・。僕はただの凡人で、偉人と同じ言葉を語る程の存在

ではないはずですから・・・。

フォントも大きいし1つの文節自体も僕の駄文なんかよりもはるかに短く

簡潔ですから、読み易いです。

 まだ、読み切ってはないのですが【読み切る物ではなくて刻み込む物で

すね。この本は・・・。(^^;】読んで行くうちに、自分の心の狭さと

か、器の小ささとか、自分と言うものがどの程度のモノであるかと言うの

が少しだけ垣間見れます。

僕の感じたことを言葉にすると・・・。

【アリは自らがアリであると認識するには、少なくともアリ以上の存在に

 アリ以外の視点から見つめられそれをアリに解るように伝えられた時、

 初めてアリは自らがアリであると認識する事が出来る】


と言う感じでしょうか・・・。

所詮小さなアリでしかないのかなと・・・。まぁ、卑屈な事は書かれてま

せんよ。この本には・・・。(^^;【誤解のないように・・・。】

多分、自分と言うものをその一空間に居る存在と仮定して、その行動を取

る存在から自己であるという概念を取り外しソレを見つめた際に自分と言

う存在の現在のサイズと言うものが理解できると思うんですよね・・・。

 自分が自分である為に【ヒトとしての尺度を図る為の物差し】のような

モノに感じます。時には自分を自分の作った物差し以外で図るのも必要な

事なのかなとそんな風に感じました。

 その物差しが多いほど、正確な尺度って計れる訳ですから、そう言う機

会を自分から作るようにしないといけないなとそんな風に感じました。

 結構、落ち込んだ時には厳しい言葉に感じるかもしれませんが、多分、

自分に無い幾つかの物を埋め合わす為のヒントみたいなモノは多く記述さ

れているように思いました。

 多分、ソレを経験した人間でなくてはソレを語ることは出来ないはずで

すから、多くを経験された方の言葉であるからこそその言葉には重みがあ

るのだと思います。

多分・・・。


【自分と言うマシンのOSを作る際に作り上げるソースは一個人の経験だ

 けでは到底使い物になるはずも無く、少なくとも他者のソースを閲覧す

 るかでそのいくつかを流用しその上で記述するからこそ、自分と言うマ

 シンは正常に起動する】

と言う感じでしょうか・・・。

少なくとも、ひとはヒトから何かを得て自分を構築しているんですよね。

自分である為には、自分を構築する為の最低限のソースが必要であり、そ

れなくして自分を構築する事は実質的に不可能だと思いますから・・・。

 少なくとも、個人に与えられた時間と言うのは決まってます。その中で

経験する事象とは限界があります。その傷を持ってひとは人として成長す

るのですが、傷だらけになる茨の道を自ら選ぶ必要もないですし、その道

を誰かに与えるべきでもない。ただ、その限られた時間の中で多くを得て、

多くを経験し自らを構築する作業を行いながら人は生きて行く訳ですよね。

 きっと、人は生きて行く上で自分では気付かない多くのものを他者から

与えられ生きているのだと思います。

 それが物質的なものでなくてもね・・・・。

知識とは、物質ではありません。感動もそうです。その瞬間に訪れる美し

いと感じる事象もそうでしょう・・・。

 他者とは必ずしも人ではないですし、ソレが自然だったりモノだったり

するかも知れません。

 文献は読んだ人間に知識を与え、芸術はその人の心に語りかけ感動を与

えます。

 ソレがそこに存在するのは、ソレを作りえた誰かが居る訳で、その存在

が居なければそれに巡り合う事すら出来ないのですから・・・。

 そう考えると、人はその生きる上において何かしらのソースを他者から

与えられ自らを構築しているといえるのではないでしょうか・・・。

まぁ、話が大きく脱線してしまいましたが・・・。(^^;

読む時には、一文節だけを読んで多くを考える方が味わい深いと思います。

どんな本も、そんな文節もそうだと思うのですが、結論を出した瞬間にそ

の文節とは面白くない物になります。

 小説なんかも、その状況を自分なりに頭の中で設定資料を描いて絵コン

テ切ってカット割してとかすると、多分10回読んでも飽きませんから。

 時間を空けて読むと、カット割とかも現代風になっててスピード感とか

その描写でのシーンの作り方とかも変わってしまっていると思うので楽し

いと思いますよ・・・。

 あっ。その本を読む前に、それに似たモチーフの最近製作された映画の

DVDを見るとその時読んだ小説と違った感じを得れると思います。

物事はなんでもそうだと思うのですが・・・。

【OOはXXだ】

と言う結論づいた時にそれは面白くなくなり、


【OOはXXかもしれない】

という事を巡らせている時の方が面白いのではないかなと・・・。


【日は昇り、日は沈む・・・。】


とか

【雨が降れば傘を差す。だが傘を差さず雨の冷たさを感じるのもいいだろう。

 雨の冷たさを知らなければ傘の意味も解らぬのだから・・・。】


とか言う文節も、そのまま見れば前者は、


【自然現象】

ですし、後者は

【誰でも知りうる事象】

にしか見えません・・・。

しかし、これだと文節は面白くない・・・。

せっかく映像にしてくれていないんです。解説も無いんですから、多くを考えて

みるのはどうでしょう?

その言葉の意味するものとは何であるかとか、その言葉によって導き出される多

くの事象がありその中のどれ程の物を見つけられるかとかね・・・。

 一つの言葉は一つを意味するのではなく、その中に複数の意味が内包されてい

る言う事を知れば文章の楽しみ方も変わると思います。

秋だから小難しい文学と言う必要は無いので、気軽に読める物で脳内での映像化

とか、その言葉は何を意味するのかとか考えてみるのもいいのではないかなと思

います。

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